御堂収骨堂、浄土真宗の墓、永代供養なら横須賀市の浄榮寺へ。

御堂収骨とは

御堂収骨とは

御堂収骨とは、浄土真宗の本山「東本願寺」の「真宗本廟収骨」に基づいています。
これは世界最大の木造建築である御影堂の正面、宗祖親鸞聖人の須彌壇の下に、一定の懇志金を納めた方の遺骨の一部を収骨することで、これはもともと、ご本山の中に遺骨の一部を収めていただきたいという敬虔な真宗門徒の願いに応じた制度でした。
この制度の背景には、「倶会一処(くえいっしょ)(ともに一処に会する)」の教えがあります。

納骨堂のような、個人個人のお墓、というものではありません。これは性別、民族、言語、宗教などの違いを超えて、ともに交わり合う場所が浄土であり、人生を終えたあとに人は皆、そこで一つになるのだという考えです。自分の墓にこだわるのではなく、「全ての衆生と世界をともにしたい」という広大無辺な教えがそこにあります。

ご相談されるケース

・お墓の購入費用が高い
・ お墓の維持費などで、子供に負担を
  かけたくない 
・ 急いでお骨を収める場所が必要に
  なった など

墓地の購入のほか、管理料などが必要な墓地や納骨堂では、死後遺族に負担がかかってしまいます。 御堂収骨では懇志金を納めていただいて以降の費用は発生しません。

・親族に負担をかけないよう、
  自分でお墓の準備をしておきたいお
・ 墓の継承者がいない(未婚、子供が
  いない、子供が 嫁いでいる など)
・ 自分のお墓は自分で決めたい
・ 先祖代々のお墓に入れない・入りたく
  ない
・ 夫(妻)の家族のお墓には
 入れない・入りたくない
・ 先祖代々のお墓は遠方にあるので
  お墓参りに行きにくい など

御堂収骨でご遺骨は本堂の阿弥陀如来の下の御堂に収められます。 収められた後のご遺骨の管理は 永代に浄榮寺で御堂では毎日の 勤行と定例の法要により、阿弥陀如来の仏徳が讃嘆され荘厳されます。 また、管理・供養は浄榮寺が 行いますのでお参りができなくてお墓が荒れたり、定期的な法要を忘れてしまう、という心配もいりません。

浄榮寺の御堂収骨

photo 死後の不安を除き、豊かな人生を共に考えるそれがお寺の大きな役割の一つです。
お寺として多くの方のお話を聞くうち、家族や地域との繋がりを絶たれ、孤独を感じている方の多いことに驚きます。
お墓を継ぐ方がおらず、無縁になるのを怖がる方、一人きりで亡くなることを怖がる方など。
数年前から「無縁社会」という言葉をよく聞くようになりましたが、人と人との絆を作れずに孤独化していく方の多くなった現代社会の一端を、上手く表した言葉ではないでしょうか。
そうした現在社会を憂慮して、この度、浄榮寺では「浄榮寺御堂収骨」の会員を募集いたします。それは東本願寺の「真宗本廟収骨」にならい、「倶会一処」の教えを体現するものであり、人と人との絆を作れずに孤独化していく現代日本人に、「浄土真宗の広大無辺な世界」を提示し、参加を呼びかけるものです。

浄榮寺の御堂収骨は、死後だけではなく、健在なうちに地域と繋がるコミュニティの一つとなります。
月に一度行う法話の集いや、行事にご参加いただくことで仏の教えに触れるだけでなく、集まった会員同士で交流をとり、人生をより豊かにする場所としてほしい。こうした願いを込め、御堂収骨を行うものです。

すでにご質問やお申し込みもいただいており、人々の御堂収骨への関心の高さに驚かされています。

御堂収骨では、本堂中央に本尊・阿弥陀如来がまつられ、その下の「須彌壇」と呼ばれている壇に一度遺骨は収められます。暫時ここに収骨された遺骨は、その後地下の収骨室に移され、永久に保管されます。(お骨は全て収めていただいても、分骨でも構いません)
御堂では毎日の勤行と定例の法要が行われ、阿弥陀如来の仏徳が讃嘆されます。

人間とは記憶の存在です。一人の人間として、存在を記憶されることは、その人の命を認めることに他なりません。人生の果てに、浄榮寺という御堂に収められることで、自身が諸仏として記憶されていくことは、人間として生きた証を残すという意味でも、極めて有意義なことではないでしょうか。

浄土真宗の教え

photo 浄土真宗は、「阿弥陀如来の本願を信じ、南無阿弥陀仏を称(とな)えれば、浄土に生まれることができる」という教えです。
これは阿弥陀様が約束してくださったこと(本願)で、この阿弥陀様のお約束を、私の先輩は次のように訳しています。
「私の名前は阿弥陀と言います。差別と殺戮のない国を作ることにしました。その国への参加資格は、『それはすばらしい。私も阿弥陀様に賛成です。私もその国に参加したいです』と、声に出していうこと(称名念仏)だけです」

「それが『南無阿弥陀仏』ですが、でもたったそれだけで浄土に生まれることができるなんて、なかなか信じられません。また今の時代なら、「別に、浄土なんかに生まれなくたっていいよ」と思う人も多いでしょう。
何事もなく暮らしていても、私たちには浄土を求める時が必ずあります。それは愛する人との別れ、憎しみ、自らの老病死への恐れなど虚しい時、苦しい時、悲しい時です。自分の存在が見えなくなり、自身の非力を思い知らされた時、私たちは本能的に浄土を求めるのです。人間とはそういう存在です。

浄土に生まれることを、「たすかる」と言います。「たすかる」というのは、すべての人間の心の一番奥にある「本願」が目を覚ますことです。 教えを聞いてきた人には、浄土を求める時如来様の声が静かに聞こえます。
「汝(なんじ)ら凡夫よ。志弱く、力乏しいものよ。我が名をとなえよ。必ず助ける!」
この内なる声に「まことにその通り、私はお粗末なものでした。かたじけない」とお念仏(南無阿弥陀仏)で応えた時、人はたすかるのです。

浄土真宗は「南無阿弥陀仏」をとなえた人を民族・言語・宗教を超えてたすけます。
浄土真宗は、教養でも習俗でもありません。本当の自己に目覚める最勝の仏道なのです。

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〒238-0047 神奈川県横須賀市吉倉町1-30
TEL : 046-822-1823 / FAX : 046-822-5970
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真宗大谷派 浄榮寺
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