浄土真宗、安針塚駅の浄栄寺の法話の集いは初めての方も参加自由です。

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「墓仕舞い」に思う

2014/09/29

最近、当山の御堂収骨に申し込まれている方が多くなっています。皆さん、それぞれに事情を抱えておられる中で、このHPをご覧になって申し込まれるようです。皆さんのニーズに手応えを感じると同時に、少し複雑な気持ちになっています。
もともと当山の御堂収骨は、「海への散骨」など、日本人の埋葬意識や宗教観とは大きく異なった形式が、個人的に行われだしたことから、安心してお骨を収められる場所を提供しようと考えたのが始まりでした。散骨を否定する気は毛頭ありません。しかし長い間日本人は、遺骨に故人の面影を偲び、お墓や収骨施設へ参拝して、大切な人を失った悲しみを癒し、そこから宗教的な導きを得て、現実を生き抜いていくという生き方をしてきました。つまり遺骨は亡き人の精神の象徴なのです。本願寺の中心に親鸞聖人の御真影(御木像)が安置されているのも、そこにいけば親鸞聖人の精神に触れることができるからです。
また名古屋市の覚王山日泰寺には、タイの王室から寄進されたお釈迦様の御遺骨が安置されています。私も参拝させていただきましたが、ここにあの偉大なる釈尊の形見があると思うと、胸が打ち震えて涙が溢れました。
私たちが考えるよりも、私の遺骨も家族の遺骨も、はるかに深くて尊いものなのです。

新「小さな寺の信の回復−2」

2013/09/09

【前号より続く】
1986年1月、T寺の住職が亡くなりました。それまでもそのご住職とはお寺が近いので、いろいろな行事でのおつきあいがありました。特に、他の寺での行事には、私が車で帰りに送っていきました。その時、少しお話をしましたが、「本堂が傷んでいるので直したいけれども、息子が跡をつがないんです。だんだん力がなくなります」と、寂しそうにおっしゃっていました。そのうちに倒れられて、亡くなりました。晩年の2年間は、ほとんどお寺の仏事はストップしていたと思います。ただ、それでもご門徒の葬儀や法事はありますから、奥さんが知り合いのお坊さんに頼んでいたようです。その方も高齢で、もうお亡くなりになりました。
ご住職が亡くなり、私の寺が隣寺ということで、私が葬儀を取り仕切ることになりました。葬儀がすべて終わって、住職がいなくなってしまったのですから、これからこのお寺をどうしていくのかという難題が降ってきました。私はあくまでも葬儀を取り仕切っただけだったのですが、ご門徒がぜひ代務者になって欲しいと嘆願されたので、父(すでに前住職になっていたので)がT寺の住職代務者となり、実質的には私がすべての面倒を見ることになったのです。→続く

新「小さな寺の信の回復−1」

2013/09/06

先日、近くのお寺の元総代の方が96歳でお亡くなりになりました。私と彼は、真宗再興の同士でした。その人とともに、一つのお寺を蘇らせたお話を、これから少しずつご紹介していきます。
(これは1994年に行われた三浦組門徒会研修でのお話を、後日私が「小さな寺の信の回復」と題して出版したものからの抜粋です)

皆さん、こんにちは。今日は三浦組門徒会の研修会ということで、いつもでしたら教区から講師さんが来られてお話をするわけですが、今回は特に「寺を開く」ということなので、1986年にT寺の御住職がお亡くなりになって、私の父が住職代務者という形でお寺をお預かりすることになりました。その中で、T寺がどのように変わってきたのか、そういうことを皆さんの前でお話することによって、21世紀に向けたお寺を創っていくヒントになればいいなあということで、お話させていただくことになりました。
初めに当たりまして、ここに蓮如上人御一代記聞書の「仏法を主人(あるじ)とし、世間を客人とせよ」という言葉を出させていただきました。蓮如上人は本願寺の八代目の御住職で、浄土真宗を日本最大の仏教教団に育てた方です。有名な御文(おふみ)では「朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり」とあり、聞いた方もあるかと思います。あのような文書伝道を成功させて、日本で一番小さな寺であった本願寺を、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らの天下人とも渡り合う大教団の基礎を作った人、それが蓮如上人でした。
この御一代記聞書(ごいちだいきききがき)は、側近が蓮如さまが身近に語られた言葉の中で、特に感銘の深かったものを集めて書き綴ったものです。私たちがお寺で迷う時に、蓮如さまはいろいろなヒントを与えてくださいます。私にとって、「仏法を主人(あるじ)とし、世間を客人とせよ」とは、まさにそうした言葉でした。−続く

東本願寺で研修してきました

2013/06/07

5月28日から30日まで、三浦組の門徒会(各寺の役員さんたち)の上山研修(東本願寺に入って勉強したり、清掃奉仕をすること)を引率してきました。
2泊3日、外界との接触を断って、親鸞聖人の御影の元での聞法と話し合い、そして奉仕は、雑念が少しずつ消えていき、3日目になると神経が集中していくのがわかりました。
今回のテーマは、ズバリ「信心とは」でした。この一年間、地元の聞法会でもそのテーマで話合ってきたものですから、本山では参加者の共通テーマとして無駄なく話合いに入れました。
講師のお話を聞き、話し合いを深めていくと、「信心とはある一つのことを疑わないようにする心境」ではなくて、「思わずうなずかざるを得ない真実に頭が下がること」ということがハッキリしてきました。無理矢理思い込むことはマインドコントロールの一種であって、浄土真宗の信心でも何でもないことがわかってもらえたようです。
一般的に信心というと、真実かどうかではなくて、とにかく信じることが強調されます。新興宗教の信心は特にそれが顕著で、疑うことは罪だとされ、その教団や組織に疑問を感じることも罪とされてしまいます。こうなると精神の健全性は失われ、心のバランスを崩し、教主の言いなりになることも珍しくありません。ついには、それから抜け出ることもままならなくなり、教団の奴隷となってしまいます。それがオウムを始めとするカルト教団の罪なのです。
浄土真宗の信心は、そうしたものとは全く異なります。親鸞聖人は、阿弥陀様のお心がくもりなく、こちらに伝わったことを信心と述べられています。つまり浄土真宗の信心とは、私たちが努力して起こす心ではなく、如来様の心が私たちに届けられたことを示しているのです。

死は人を隔てるものか

2013/05/14

5月5日は、当山の花まつり・永代経法要でした。真新しい本堂が満堂になり、全員での正信偈のお勤めは、ご講師の先生が「すばらしい声ですね!」と感動されるほどの大音量でした。参加者の一体感は、気持ちを高くさせてくれました。
思えば、私は22歳の時に、先輩からお借りした一冊の本「仏陀−人類最高の人間像を描く−増谷文雄著」を読んで、「私はブッダの弟子になりたい」と思い、出家をして現在に至ります。最近、そのことがたいへん思い出されてしかたありません。考えてみれば私がその本に出遇った時は、すでにブッダはこの世を去って2500年が経っています。にもかかわらず、その時空を超えて、釈尊のメッセージはこの私に届きました。
それを思うと、死は私と釈尊を切り離すものではないことを確信しています。一般的な考えをすれば、死はすべてを隔て、生者と死者との間にはどうにもならない暗黒の断崖があり、それを超えることは不可能と思えます。しかしそうではないのです。死者のメッセージ(願い)をかぎ取っていく感性を持つことによって、私は無数の諸仏とともにあるのです。そのために私は仏教を学び、多くの諸仏の願いを聞き開いていく、それがいのち生きるものの仕事だと、思えてなりません。

怨みを超えて

2013/05/03

今から2500年前に、お釈迦様はこの世に生を受けられ、35才の時に厳しい修行から離れて、一人菩提樹の木の下に座して、深い瞑想に入られました。脳裏に浮かんでくるのは、様々な過去の思いだったかもしれません。深い闇に覆われた暗い世界が、内側からほのかに光が当たり、瞬く間に全体を明るく照らし出しました。目覚めすなわち覚りの時を迎えたのです。
それ以来、彼は仏陀(ブッダ)と呼ばれました。ブッダとは覚りを得たものという意味です。何を覚ったかというと、人間存在の意味と、苦悩の根本原因、そしてそれから解き放たれる道理を覚られたのです。
私たちはお釈迦様のことを釋尊と申し上げます。釈迦族より出でたる聖者、という意味です。その呼び名の通り、釋尊の教えは仏教となって、世界中の人々の闇を破り続けています。

「怨みを超えて」
平和な国がありました。王はお釈迦様の教えを守って国を治めていました。
隣の欲深い王が、突然国境まで攻めてきました。大臣たちは王に兵を出す許しを求めました。
「私一人を守るために、多くの民を死なせてはならない」
「そのような王様をこそ、命がけでお守りしたいのです。どうか出兵のお許しを」王は黙って引きこもり、王子を呼びました。
「勝っても負けても、戦えば多くの犠牲者が出る。私は身を隠して国を大臣に委ねようと思うが、どうか」「私も父上と城を出ます」
王子はきっぱりと答え、その夜のうちに、二人は山奥へ姿を隠しました。
突然に王と王子を失った大臣たちは、くやし涙をこらえ、王の心をうけて戦わずに降伏しました。
王はやがて静かに世を去りました。
「怨んではならぬ。怨みはまたもっと大きな怨みを生むだけだ」
父王の遺言を胸に刻んで、王子は山をおりました。
ふるさとはわずかの間に様子が変わっていました。王子は重い足取りで町を歩いていると、新王の野菜畑で働き手を求めていました。
粗末な身なりの王子は、だれにも怪しまれずに雇われました。よく働きました。まもなく、王の食事係にとりたてられ、ついには王のそば近く仕えるようになりました。
 あるとき、王は言いました。
「この国の前の王は戦もできない弱虫だが、王子は私を怨んで、いつかきっと攻めてくる。おまえは私のそばをはなれず、しっかり守るのだぞ、いいな」王子は黙ってうなずきました。
 さてある日のこと、王は狩りに出かけました。いつになく熱中して、森の奥深くに迷い込み、王は家来とはぐれて王子と二人きりになりました。
「のろまな家来たちめ、今ごろは慌てて私を探しているだろう。ここらで一休みするか」王は腰の刀をはずして、王子のひざをまくらに眠ってしまいました。
 ー今こそ父王の無念をはらすときだ。王子が刀に手をかけようとすると、王が眼をさましました。「前の王の王子がこの森にいる夢を見た。すぐに消えて顔がよくわからなかった。疲れすぎたせいであろう」そう言いながら、王はまたまどろんでしまいました。
 ーぐずぐずしていてはだめだ。こんなチャンスは二度とないのだ。
 王子が刀をぐっとにぎると、また王が眼を開きました。
 「妙だ。また同じ夢を見た。今度は後ろを向いてじっと立っていた。油断するなよ」王は寝返りをうつと再び眼を閉じました。」
 ーよし、今度こそ。
 王子がそっと刀を抜き、王ののどもとを突こうとした瞬間、「王子よ、怨んではならぬ」という父王の声が耳に響きました。
 王子は低くうめいて、刀を地面に深く突き立てました。
 王ははねおきました。
 「なにごとだ!」
 「王さま、私が前の王の王子です。今、お命をいただくところでした。さあ、私を討ってください」あっけにとられている王の前に、王子は自分の刀を差し出しました。 「なぜ打たなかった」
 「はい、父の遺言を破れなかったのです」
 王は遺言を聞くと、がっくりとひざをつきました。
 「そうであったか…」
 王はしばらく眼を閉じていました。やがて二人は馬を並べてお城へ帰りました。
 次の朝、王は王子に国を返して、自分はもとの国へ引き上げることを発表しました。
 「王子よ。いや、王よ。私の償いは今から始まる。私と私の国を見ていてほしい」
 二人の王の瞳は朝陽の中でキラキラ輝いていました。
(六度集経)

今、憲法を変えようという動きが出ています。戦争はいつも立派な大義名分によって起こされます。戦争を引き起こすのは、いつも勇ましい人々です。しかしその悲惨な結果の責任を、その人たちは絶対にとろうとはしません。
このお話は、仏教が戦争と暴力を否定する教えであることを示しています。戦争は人間の煩悩によって引き起こされるのです。仏や神のわざではありません。戦争を肯定する宗教は、真実とは言えないのです。

教如上人の生涯と東本願寺の創立

2013/04/20

今年は東本願寺を建立した、本願寺第12世教如上人の400回忌に当たり、本山・東本願寺では4月2日〜4日まで、法要と講演、シンポジウムや関連資料の展示など、非常に内容の濃い法要が勤まりました。私もこれまで認識していた教如上人への思いを新たにさせられ、改めて教如さまのご生涯が尊く感じられてなりませんでした。
世間では、「本願寺の東西分立」と言われ、「本願寺の勢力を恐れた徳川家康が二つに分断した」などと言われていますが、事実はまったく違っています。今回明らかになった大切なことは、「本願寺の東西分立」ではなくて、「東本願寺の創立」というその大きな意味がはっきりしたことでした。
そうした資料や、研究者たちのご意見を踏まえ、私が推測するこの日本史最大のお家騒動の顛末を、たいへんな長文になってしまいましたが、最後までぜひお読みください。

【これまでの風聞】
東西本願寺の分立は、一向一揆を支配し、実碌百万石にも匹敵する本願寺の勢力を分断するために、徳川家康が引退していた教如上人に東本願寺を建てさせたと言う説が、まことしやかに語られている。しかし10年に及ぶ織田信長との石山合戦を経て大坂退去を余儀なくされた本願寺は、すでに信長などの戦国大名に対抗する力はなくなっていたと考えるべきだろう。事実、本能寺の変の後は、もっぱら豊臣秀吉の庇護の元で、痛みきった教団と寺跡を回復させている。大坂退去の直後こそ自発的に紀州・鷺の森に移ったが、それ以降は秀吉に命じられるままに泉貝塚→大坂天満→京都堀川へと移っている。短期間にこれだけ寺基を移転させられることは、財政的負担は相当なものであり、にもかかわらずその命令を拒む力は、すでに当時の本願寺にはなかったと言うべきだろう。

【東西分立の原因】
この問題については、すでに多くの研究者が石山籠城中の顕如・教如父子の路線対立が原因であることを指摘している。私もそう思う。しかし一方で、親子の義絶は表向きのことで、実は裏で二人は通じ合っていて、退去と籠城という二面での作戦を遂行していた等の説も後を絶たない。大坂拘様(おおさかかかえざま)(教如が退去した父・顕如と別行動をとり、石山本願寺に籠城して抵抗したことを指す)が限界を迎え、退去を余儀なくされた教如は、生まれ育った石山本願寺に自ら火を放ち、その煙に紛れて大坂を退去した。その足で父・顕如のいる紀州・鷺の森に向かうが、顕如は義絶を解かず、教如は行き場所を失って、それから2年間諸国を秘回するのである。
しかし本能寺の変で信長が死ぬと、教如はすぐに鷺の森に向かい、顕如との対面を願い出る。顕如も信長の死で状況が変わったとして、すぐに教如の義絶を解いている。それ以降、二人は力を合わせて泉貝塚→大坂天満→京都堀川と、権力者・秀吉によって何度も移転を余儀なくされる本願寺を守り抜いていくのである。

【顕如の死、教如の継承そして退隠】
京都堀川に、約130年ぶりに寺基を構えた本願寺で、激動の時代を生きた本願寺第十一世・顕如はこの世を去った。享年五十であった。すぐさま嫡男の教如が秀吉の命令によって本願寺第十二世を継承し、父の葬儀を取り仕切った。
しかしそれから数ヶ月後、事態は急変する。秀吉から大阪城に呼び出された教如は、そこで父・顕如の譲り状があり、それに従えと命令されたのだ。それは、今後十年間在位し、その後は弟の准如に継承させるということであった。譲り状には「本願寺留守職のこと、阿茶(准如)へ譲りそうろうこと…」と書かれてあった。教如はこの時驚愕しながらもそれを受け入れたが、側近である坊官(家老)の下間頼廉が激しく秀吉に異議をとなえたため、それが秀吉の逆鱗に触れて、十年在位ではなく即刻退位となってしまった。第十二代本願寺教如の在位は一年に満たないものであった。

元来、この譲り状は偽作とされている。つまり教如の引退は何者かに画策された謀略だったのである。それは誰だったのか。直接の実行犯は母親の如春尼と言われているが、裏にその絵を描いた黒幕がいたはずである。また当時の本願寺内部の人事も、このことに深く関係しているようだ。ドロドロとした人間関係が絡み合い、権謀術数の限りを尽くして、この世紀のお家騒動が起こったのである。しかもその影響は、大名家のお家騒動などの比ではない。浄土真宗に命をかける僧侶・門徒の信心と生活をも揺るがすものであった。

【本願寺内部の軋轢】
当時本願寺には門主・新門主である顕如・教如をトップにいただき、その下には坊官と呼ばれる3人の家老がいた。家老は本願寺の運営を司り、あるいは戦国武将のように合戦の指揮をとるなど、その権力は絶大なものであった。この3人の家老が、下間頼廉・下間仲之・下間頼龍である。
当初、顕如・教如父子は、信長との最後の引き際をどうするかで意見を戦わせていた。顕如はこれ以上戦うことは、教団全体の力を失い、ややもすれば滅亡しかねないとして、朝廷に和議を申し立て、信長に大坂を明け渡すのもやむなしとしていた。一方、教如は「それではこれまでの戦いで命を落とした無数の門末に顔向けができないではないか。そして信長が約束を反故にして、退去した本願寺に再び兵を向けない保証はない。安易に退去はすべきでない」と、強行に主張した。実はここにも多くの背景がある。全国から大坂へ向かう僧侶・門徒は、宗祖の聖地を信長の馬蹄から守らなければならないと思うものが多く、一方本願寺の中枢は、戦いに疲れ果て、和議・退去でこの戦いに幕を引きたいとの思惑があった。そして、和議が成立し、退去の時が近づくと、退去と籠城で両派の意見対立はいよいよ激しくなっていった。しかしそれでも、顕如と教如の意思疎通は確保できていた。
しかし、退去を急いだ顕如は、予定より早く退去を敢行した。これ以上両派の争いを深めないための方途であった。それは逆に教如に籠城の志を固めさせ、親子は引き裂かれていく。そしてこの状況にいたって、親子の意思疎通は決定的に疎遠になるのである。
この二人を離反させるべく動いたのが、家老たちであった。とりわけ下間仲之は教如を嫌い、大坂より届く教如の手紙を顕如に取りつがなかったと思われる。教如も仲之が謀略的であることを感じていて、一老の下間頼廉に取り次ぎを頼んでいる。しかし父子の間はいよいよ開いて行き、とうとう顕如は教如を義絶するのである。
教如の大坂籠城いわゆる大坂拘様は、顕如退去の担保として、殿軍の役を与えられたとする説がある。退去していく顕如の後方支援を教如が担うのである。これは当時の戦線離脱ではよく取られた方法であり、有名なところでは信長が浅井朝倉の連合軍の挟み撃ちに遭って、そこから脱出するために、秀吉が最も危険な殿軍をかって出たことがあった。
この教如殿軍説はかなり信憑性のある話で、それでは誰がこの絵を描いたのかと言えば、下間仲之であるという説が有力である。家老たちにしてみれば、教如とそれを支える徹底抗戦派の地方坊主を殿軍にしておけば、信長によってまとめて殲滅されることを期待して、この絵を描いたというのである。事実、その方向で事態は動いた。しかも父子の意思疎通が家老によって分断され、教如の立場はますます不利になっていく。その結果の義絶である。この先どこでのたれ死んでも、顕如や側近の下間氏は何の痛みもないのである。
家老の中で、一人下間頼龍だけは教如の側についた。彼は顕如の元を離れ、諸国を流浪する教如と行動を共にした。また教如は仲之に強い警戒感を持ちつつも、頼廉には連絡を取り続けている。しかし私には、この頼廉もくせ者だったと思えるのである。それは後に記述する。

【本能寺の変後、父子の和解】
大坂を退去した後、教如は秘回を続ける。信長がいるので、顕如とは会えない義絶状態が続いていた。しかし本能寺で信長が自刃すると事態は一変する。
信長死すの報は教如にも届き、教如はすぐさま紀州・鷺の森に向かった。顕如も廃嫡を翻す時を待っていたようだ。二人は合流し、和解した。その後の父子は秀吉の計らいもあって、とりわけ教如は顕如を補佐し、門主の代行を勤めるなどして、関係は修復されたかに見えた。
その一方で教如は豊臣政権の中枢と深い関わりを持っていく。千利休との関係はいよいよ深くなり、教如は大きな茶会での茶頭を何度も任されている。しかしこのことが、後に教如に大きな影を落とすことになるのである。
本願寺はその後、泉貝塚→大坂天満を経て京都堀川に安住の地を定める。

【顕如の死、その意味するところ】
大阪退去後、何度も移転を重ねた本願寺を守り通した第十一世顕如光佐がこの世を去った。戦国乱世の中を、苦難に揺れる本願寺を守り抜いた生涯であった。先述したように、秀吉は直ちに教如に継職を命じた。すると教如は、ずっと顕如の側近であった下間仲之の家老職を取り上げ、閉門を命じた。これまで何度もこの二人は確執を繰り返してきたが、それでも顕如の在世中は表だった対決を避けていたようだ。しかし顕如没後の今、積もり積もった教如の不信感は、仲之閉門へと向かった。仕方ないことであった。
しかしこの下間仲之、とんでもない謀略の男である。かつては顕如と教如の離反を工作し、説によると抗戦派と教如を殿軍にして本願寺の盾に使った首謀者とも目されるその男は、謀議を図らせたら門主教如の比ではない。どちらかと言えば、教如はそうした謀略には無縁で、身の丈6尺(180僉砲琉夘堂々とした体躯、正々堂々の直球勝負が持ち味の豪傑であった。下間仲之は、能の名手であることを利用しながら、閑職中に秀吉側近の石田三成と深い関係を結んでいく。その成果が一年後に現れるのである。
秀吉の身辺にも変化があった。大和大納言と言われた弟豊臣秀長が死んだ。これによって、政権内部のバランスが崩れ、太閤秀吉を死守するためにはエキセントリックな手段も辞さない石田三成が台頭してくる。彼はあることないことを讒言して、秀長の後ろ盾を失った千利休を切腹に追いやった。そこで次のターゲットになったのが、利休と親しい教如である。希代の策士である三成と、奸智に長けた仲之のコンビによって、教如引退のカウントダウンが始まった。
私が想像する教如引退の絵はこうだ。まず顕如の譲り状を偽作し、それを妻であり、教如・准如の母である如春尼に持たせて秀吉に訴え出る。如春尼は、教如の妻女が気に入らないこともあり、また大坂拘様以来、すでに教如と反りがあわなくなっていたし、末子准如への溺愛もあって、この話に乗ったと思われる。そしてここで、もう一人の家老・下間頼廉が登場する。彼は常に顕如・教如の信頼が厚かった。教如も、仲之の首は切ったものの、頼廉に対しては父と同じように厚く遇したのである。仲之は頼廉にある話を持ちかけたのだろう。
つまり、最初の条件である「教如が十年間在位の後に、弟准如に家督を譲る」という話は、考えてみれば遠大な話で、もし政治状況が変化すればその約定が守られないことも十分にあり得るし、ましてこれから十年間命をながらえる保証はどこにもない。そう考えると、即刻引退に導くしか方法はなくなる。つまりそれは天下人秀吉の逆鱗に触れることによってのみ可能となる。仲之は頼廉に話を持ちかけ、准如継承後の地位の安泰を約束した上で、一芝居打つように仕向けたのだろう。先述のごとく、秀吉の前で譲り状を披露され、困惑しながらもそれに従おうとしている教如本人を尻目に、頼廉は烈火のごとく怒り、秀吉と閣僚に抗議した。そしてその結果、台本通りに秀吉が激怒し、教如の即刻退位、准如の本願寺継承が決まったのである。顕如の死からわずかに11ヶ月後のことであった。
ちなみに准如が本願寺を継承すると、仲之は家老に復職し、頼廉はその後ずっと准如を支え続け、その一族は本願寺家老の筆頭であり続けた。私が教如排斥の黒幕を下間仲之、実行犯を如春尼、トリガー役(引き金)を下間頼廉と指摘するのは、准如の本願寺継承後の彼らの地位がそのことを物語っているからである。
後述するが、関ヶ原の戦いの後、教如が家康の本願寺門主復職要請をかたくなに断った原因が、この下間頼廉の行動にあると私は確信している。考えていただきたい。頼廉が豊臣秀吉の前で「譲り状」の真偽にクレームをつけ、それが秀吉の逆鱗に触れて、教如は本願寺門主の座から追われたのである。つまり頼廉が教如を追い込んだのだから、彼が本当に教如を支えるつもりであったならば、教如を引退に追い込んだ責任をとって切腹するか、蟄居閉門を申し出るのが普通である。しかし結果は、まったく違うものであった。頼廉は教如と離れ、准如の重臣として迎えられ、その一族は幕末まで西本願寺坊官最高の地位にあった。教如はこの陰謀に頼廉が関わっていたことを後から知ったのだろう。信頼していた家臣に裏切られたことを知った衝撃は、いかばかりだっただろう。しかもそこに実の母が関わっているのである。極端な人間不信に陥ったことに違いない。教如が本願寺門主への復職を絶対に固辞する理由はこれであることが断言できる。人間とはそういうものである。
人間不信と絶望と慚愧のただ中にあって、彼は本当の回心(信仰を得ること)を迎えたと思う。それは大坂拘様から、諸国秘回の苦難を経て、自分を信じ、今も支え続けてくれる全国の名も無い群萌の存在である。彼らの存在は弥陀の光明となって、絶望の淵にあった教如を再び立ち上がらせたことだろう。それが新しい本願寺の創立という、教如の新たな使命を誕生させたのである。
余談であるが、もう一人の家老、下間頼龍はその後も教如に仕え、東本願寺の創立とともに、教如に従って堀川本願寺を去り、そのまま東本願寺の坊官となった。

【隠居した教如】
本願寺内部のすさまじい謀略的政変によって、引退に追い込まれた教如であったが、我が世の春を謳歌するはずだった准如・如春尼母子や下間仲之も、大きな誤算に苦しむことになった。大坂籠城以来、地方の大坊主や有力門徒には本願寺中央での政変で引退させられた教如を支持するものが多かった。なんと言っても時は封建時代である。本願寺の嫡男として揺るぎのない存在感を持った教如と、末子の准如ではネームバリューが違う。准如の継承に失望した者も多かったであろう。
この時代、嫡男である新門主・教如には、帝王学ともいうべき教学・儀式が伝授されている。本願寺は教学・儀式が門主から新門主へという流れを持ちながら運営されている。それに比べて准如は末子であるから、そうした帝王学を持たない。教学・儀式のマジョリティーは教如にあって、すさまじい権力闘争の果てに本願寺を継承した准如は、寺宝や堂宇などのハードウェアは継承したものの、宗教教団のいのちである教学や儀式といったソフトウェアは継承できなかった。すなわち真の本願寺継承者たる教如にそれは引き継がれた。
実際、東西本願寺の分立後、西本願寺では教学・声明作法などは多く天台や浄土宗から補填して、現在にいたっている。石山本願寺以来の声明作法や蓮如の相伝儀書などを守り続けている東本願寺とは対照的である。
教如の引退から関ヶ原の戦いまで、教如は堀川本願寺の北にある屋敷に蟄居しながら、下間頼龍らとともに精力的に活動している。大坂に大谷本願寺(現難波別院)を再興させたり、教如の精神はどこまでも本願寺の正嫡であった。門末からの本尊下付の依頼などは、本来本願寺門主が行う行為で、引退者には禁じられていたが、教如は門徒の求めに応じて本尊下付を続けた。これについては、准如から再三そのようなことをしないよう要請されていたという。
教如の心中には、この頃すでに新しい本願寺創立の構想が芽生えていたと思う。石山本願寺に生を受けた教如は、信長との石山合戦の果てに紀州・鷺の森→泉貝塚→大坂天満→京都堀川と移転を余儀なくされた。石山本願寺ならいざしらず、移転の果てにたどりついた堀川本願寺にノスタルジーのあるはずはない。それに加えて先述した如く、俗世の政界もたじろぐばかりの陰湿極まりない権力闘争の果てに、その地位を追われた教如にしてみれば、堀川の本願寺は宗祖の教えなどどこにも見当たらない魑魅魍魎の魔窟であったろう。それよりも、全国を秘回中に出会った名もない無数の門徒の支援こそ、真の本願寺精神だと確信していたに違いない。来る新本願寺創立に向けて、教如は全国を飛び回った。

【秀吉と如春尼の死】
1598年、関ヶ原の戦いの2年前、天下人・太閤秀吉が死んだ。本願寺への弾圧を繰り返した主君・織田信長とは一線を画し、秀吉は終始本願寺を統制・保護した。しかしある面では信長以上に、本願寺に影響を与えた人物だったと言える。教如の門主引退も彼の一声で決まった。
母・如春尼も同じ年、この世を去った。55才であった。彼女は三条西公頼の末娘として生まれ、二人の姉は武田信玄と細川晴元に嫁ぐ。教如との不和から、彼女は教如の母ではないと言われることが多かったが、実母である。溺愛した末子の准如と教如は父母を同じくする兄弟である。もう一人、本願寺の脇門跡である興正寺に養子へ行った次男・顕尊が間にいる。この顕尊が引退させられた教如に同情し、母や弟との間を取り持ったようだ。
教如とはいろいろ対立することは多かったが、教如はこの母を慕っていたようだ。1584年、二人は宇治への見学に出かけたという記録がある。
また如春尼の死去の際、教如は最後の面会を准如に申し入れたが、それは断られた。しかし次男・顕尊の取りなしによって、葬儀の時の焼香は許された。

【退職から関ヶ原の戦いまで】
門主引退後、教如の支持者への行動はいっそう活発化する。そうした動きに敏感に反応したのが、准如や下間の家老たちであった。彼らは秀吉に訴えて、全国の諸大名に教如を支持する寺や門徒を厳しく弾圧させた。
私はかつて、三浦半島の西本願寺の住職に、「東西分派の折には、さかんに報奨金が飛び交って、激しい引き抜きが行われた」という話を聞いた。さもありなんと思って今日に至ったが、これは徳川の金城湯池である関東だからその程度で収まっていたのだ。ところが北陸では、准如は秀吉を動かして教如派弾圧に踏み切った。前田利長は越中国内の坊主を呼び出し、筆頭伏木勝興寺・井波瑞泉寺に取り締まらせて、教如派を徹底的に弾圧した。一部の寺院の動きを察知すると、慶長2年7月4日に彼らを捕らえ、6日には首を討ち、獄門さらし首として見せしめにした。地方領主による教如派弾圧の端緒であった。
私はこのことを、ご本山の展示資料で初めて知った。資料には絵伝があり、そこには「堀川本願寺に従わない者はこうなる」という、見せしめ文言が記されていたという。今回私は、改めて准如の本願寺に強い憤りを感じた。本願寺内の謀略の限りを尽くした権力闘争を、地方の僧侶や門徒にまで拡大し、弾圧まで行って自らの権力保持に邁進していた堀川本願寺に、親鸞の継承者の資格など微塵もないではないか。
とりわけ教如に対する弾圧の魔手は、関ヶ原の戦いをピークとしている。教如は准如や石田三成の追手をかいくぐり、栃木小山の家康を陣中見舞いしている。一方の准如は石田三成を見舞っている。当然だろう。三成のお陰で本願寺をかすめ取れたのだから。先述したように、下間仲之は教如よりはるかに謀略に優れていたが、時代の大きな流れを読む力は教如が勝っていたというべきだろう。教如の乾坤一擲(けんこんいってき)の家康陣中見舞いは、その後の流れを決定していった。

【徳川政権の誕生と東本願寺の創立】
関ヶ原の直後、家康は教如と会見し、再三本願寺への復職を申し入れたが、教如が固く断った。これで巷間言われる「家康の本願寺分断説」が風聞に過ぎないことを物語る。前述したように、信長に敗北し、秀吉に翻弄された本願寺には、すでに天下人に対抗する力はなかった。よって今更本願寺の力を分断する必要はなかったのである。家康にしてみれば、関ヶ原の合戦に際して、身の危険を顧みず、小山まで陣中見舞いに来てくれた教如の恩義に報いるには、三成と准如・仲之によって強奪された本願寺門主の座に、再び就かせてやろうと考えるのは当然であった。しかし教如は固辞した。なぜか。その理由は、すでに本願寺は内部で教如派と准如派に分裂していて、教如が門主に復職すれば、今度は准如方が抵抗をするだろう。准如は教如の復讐に怯え、本願寺内で自害して果てる覚悟であったとも言われている。これ以上相争い合うことは、宗祖の意思を継ぐものとしてふさわしくないと思ったであろう。
何より私は、次のように思うのである。下間仲之を中心として、俗界にもまれな陰湿極まる謀議の果てに引退させられた教如にしてみれば、堀川の本願寺は宗祖親鸞聖人の精神などどこにもない、権威と権力を守るためには反対派への弾圧も辞さない魔窟と化したと思ったのではなかったか。引退後の教如が、喜々として新しい本願寺創立に向けて動き出したことを見ると、堀川本願寺(西本願寺)への未練など毛頭なかったであろう。しかしそれは、教如を支持する多くの地方寺院・門徒の存在を抜きに語ることはできない。

【嫡家御取立(ちゃくけおとりたて)】
その上で、教如は家康に寺地の寄進を願い出る。それが現東本願寺の土地である。家康はそれを了承しただけでなく、堂宇の寄進も申し出るが、それを教如はきっぱりと断った。本願寺は権力者のバックアップによって成り立つのではなく、名も無い無数の真実を求める群萌によって成り立つ寺であることを家康に伝えた。ここに私は東本願寺こそ親鸞の精神を唯一継承する「真宗本廟」であることを見出すのである。親鸞−蓮如−教如と受け継がれた浄土真宗は、東本願寺へと確かに伝えられたのである。
家康は教如の復職を断念し、京都東六条の土地を寄進した。そして重臣・本多正信の勧めに従って、「嫡家御取立」すなわち本願寺の正嫡である教如の新本願寺を今後取り立てていくという方針を打ち出す。その象徴が、新本願寺創立に不可欠な宗祖親鸞聖人の御影を、本多正信の斡旋で上野厩橋(前橋)の妙安寺にある親鸞自刻の影像を迎えたことである。
しかしそれをも上回ることは、教如が家康から獲得した「布教と帰属の自由」である。退隠以来、准如方による教如派の弾圧はすさまじかった。秀吉の権威を嵩(かさ)に、堀川本願寺方は教如派を徹底的に取り締まり、生害を加えたのである。家康が天下人になり、西軍を支援した堀川本願寺は政治の動向を固唾を呑んで見守っていた。ここで教如は「布教と帰属の自由」を家康に保証してもらうことに成功した。つまりここで初めて、教如は新本願寺の創立を許されたのである。
ここにおいて教如は下間頼龍ら側近とともに、東六条の新本願寺に入った。1603年正月、教如は妙安寺から御影を迎えた。同年11月阿弥陀堂が完成し、翌1604年四月には御影堂建立に着手し、同年9月には完成し御影の遷座法要が営まれた。しかし世間はまだこの新本願寺を認めてはおらず、「裏方」「七条本願寺」「信門」などと呼んだ。一方で堀川本願寺は「本願寺」「七条門跡」「本門」などと記されている。教如存命中は、新本願寺は独立した一派とはみなされなかった。その没後、元和年間あたりから、「七条東門跡」などと呼ばれるようになって、ようやく公権に認められてくるのである。

【教如の自覚】
教如が家康の再三にわたる復職要請を固辞し、新しい本願寺を創立させた精神は何だったのか。それは教如の中に芽生えた「阿闍世の自覚」と「真宗の教えの正嫡意識」だったと私は考えている。阿闍世の自覚とは、大谷大学の大桑斉氏が言われた説である。大坂拘様に端を発した顕如・教如の相克は、その後父顕如と和解したからといってなくなるものではなかった。とりわけ対立する本願寺の重臣たちに、そのことにつけ込まれて謀略にはまったのであるから、悔やまれてしかたなかったことだろう。しかし、全国を秘回する中で、自分をかくまってくれる多くの素朴な門徒の心に触れ、この人々を救う教えが真宗であることを改めて確信した教如は、観無量寿経の阿闍世の中に自己を見出したと言われる。それは一言で言うと、「反逆」の意識である。仏法に敵対する第六天の魔王を自認した信長への反逆、新たな神になろうとする秀吉への反逆、それらに同調して自分を義絶した父・顕如、重臣たちと共謀して退隠へと追い込んだ母・如春尼、それらが教如の阿闍世の自覚を育んだのだろう。その反逆の阿闍世・教如が、名も無い無数の門徒に支えられ、かくまわれた。彼らへの恩義はいつしか弥陀の大恩に変わっていった。彼らが正客の本願寺であらねばならない。そして逆賊の自分を救ってくれた教えを、生涯守り通すことこそが本願寺の正嫡の使命だということを、教如は心深く刻んだことであった。
その証が、「本願寺親鸞聖人伝絵」康永本の持ち出しである。覚如作の宗祖の伝絵の最終決定版である康永本は、本願寺留守職正嫡の証と言われている。それを教如は、堀川本願寺から持ち出した。東本願寺の西側は高い石垣で守られている。寺の石垣としては異様な雰囲気を持っているが、これは東西分派した当初、11月25日に東本願寺にて「御伝鈔」が拝読される折、西本願寺方がそれを取り返しに来るというので、高い石垣を廻らし、僧兵を置いて警戒した跡だということである。

【東西本願寺の競い合い】
教如が堀川本願寺に復職せず、烏丸に新本願寺を創立したことは、実に先見の明があった。まず不要な争いが避けられた。江戸時代を通じて、西本願寺はその脇門跡である興正寺と何度も摩擦を繰り返し、そのために教団も人も疲弊してしまったと言われる。親鸞の名のもとに、兄弟で正嫡を争う愚は、真宗教団を著しく損なう行為であり、宗祖に申し訳が立つものではない。家康の保証もあって、門末はとりあえず自由に東西両派を選べるようになった。しかし実際には、地方大名の意向が大きく左右し、お東は主に譜代・親藩大名のお膝元に多く、一方お西はかつての西軍つまり外様大名の領地で勢力を伸ばした。従って、教如の理念に従ったというよりも、領主の意向や、教団内の処遇など様々な条件が絡み合い、江戸時代を通じて頻繁に帰参・改派が起こった(東から西へ行くことを帰参、反対に西から東へ行くことを改派と言った)。しかしお互いへのライバル心から、教学や地方の御坊(現在の別院。本願寺の地方行政の中心寺院)を整備し、積極的に布教や引き抜きを行った結果、東西本願寺の教線は著しく伸び、両本願寺を合わせれば、日本最大の仏教教団となったのである。

【宗派名について】
浄土真宗の宗派名については、東西本願寺ともに江戸時代を通じて、不本意ながら一向宗と呼称された。その理由は徳川家の所属宗派は浄土宗であり、「浄土真宗」の名称を求めると、常に浄土宗からの強固な反対によって、実現されなかった。彼らは「浄土真宗というのは、元祖法然上人が開かれた浄土宗のことであり、親鸞の本願寺がその名称を使うことなどもってのほかである」というものであった。真偽によって反対するのではなく、まさに将軍の権威を借りた不当な行為を、江戸時代を通じて両本願寺にし続けた。
明治維新によって幕府が倒されると、浄土宗も将軍家の威を借りることができなくなり、浄土真宗の宗派名が真宗各派寺院に許可されることとなった。
江戸時代を通じて、ライバルとして正嫡を争ってきた東西本願寺であったが、明治時代を迎えて和解と協調の気運が高まってきた。そこで正式な宗派名は東西で協議して、東は真宗東本願寺派、西は真宗西本願寺派ということで申請を行うことになったが、実際ふたを開けてみると、「真宗西本願寺派」から西が削除されていて「真宗本願寺派」で申請されていたのである。これでは「真宗東本願寺派」は本願寺の傍流と見なされてしまい、東本願寺の呼称は使えなくなってしまった。これにより、雪解けを迎えた東西本願寺の関係が、一気に再び冷え込んだと言われる。縷々述べてきたように昔から西本願寺の中心には、こうした謀略的なことをする人間がいるようだ。それに比べて東本願寺は、人が良いというか、疑わないというか、きまじめな宗風がある。そうしたことも教如以来の伝統かもしれない。
正式名称として「東本願寺」が使えなくなり、新本願寺は「真宗大谷派」を名告ることになった。本願寺がかつて「大谷本願寺」と名告っていた故事にちなんだのであろう。
現在では東本願寺も西本願寺も正式名称ではなく、その位置から言われた「通称」に過ぎない。正式名称は東は「真宗本廟」、西は「本願寺」である。後述する東本願寺紛争の際に、大谷門主の一族が、東京にある浅草別院を宗派から離脱させ、「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」という、ややこしい名前をを正式名称として名乗っているのは、まさにこうした歴史を知らないからだろう。東本願寺を正式名称にするということは、本願寺(この場合、西本願寺を指す)を本家とみて、自らを傍流の立場に置く愚かな行為と言わなければならない。


【東本願寺の堕落−教如精神の喪失】
慶長19年(1614年)10月5日、教如は57才でこの世を去った。院号は信浄院。新本願寺は教如の三男宣如が継いだ。宣如の院号は東泰院。教如が創立した東本願寺に宣如が安泰をもたらした、という意味合いがこの院号に現れている。
ともあれ宣如の頃になると、世間でもようやく東本願寺が認知されてくる。東西本願寺は分立と対立の第十二代から、安定の第十三代へと移った。
この頃は、教如が本願寺の嫡男という記憶も遠くなり、既存の西本願寺が本家として都に鎮座しているので、東本願寺はどうしても後塵を拝せざるを得なかった。西本願寺が寺宝や堂宇を継承し、本家としての揺るぎない地位を持つのに対し、東本願寺はそのようなハードウェアをほとんど持っていない。するとそこに、本願寺の正嫡というソフトウェアで対抗するしか術がなくなる。すなわち親鸞の血脈の正統性が強調された。それは宣如以降、東本願寺では門主イコール御真影という生き仏信仰が強まったことを意味する。
また東本願寺の地名である常葉町は、かつての唯善事件によって持ち去られた本願寺の最初の御影が、江戸時代に鎌倉の常盤から発見され、東本願寺に収納されたことにちなんだとされている。それも西本願寺の御影に対するコンプレックスが原因である。西本願寺以前に安置されていた生身御影が本物であり、それを迎えた東本願寺こそ本願寺の嫡流であることを誇りたかったのだろう。残念なことにその「常盤の御影」は、本願寺の倉に収まって以来、一度も公開されていない。これも迷信を否定した真宗ならではの、歪んだ正嫡争いの産物とは言えまいか。
それに加えて、江戸時代250年の太平に守られて、東西両本願寺とも権威主義をエスカレートさせていく。そんな中で行われたのは「大師号下賜運動」だ。両本願寺ともに物心両面で、僧俗を挙げて血眼になって朝廷からの大師号下賜を望んだのである。
思えば教如が新本願寺を創立したのは、権威主義が横行し、権力争いに血道をあげる旧本願寺を見限って、名も無い門徒とともに歩む宗祖の精神の復活を期してのことではなかったのか。東本願寺にはハードウェアは何もないが、親鸞の御同朋御同行の精神こそが、浄土真宗の宝であることを教如が明らかにしたはずであった。しかるにまたぞろ、そうした教如の精神を忘れ、権威を求め、権門にすりよる反親鸞の悪弊が、東本願寺を蝕み始めたのである。朝廷や将軍家を始めとして、大名公家等との縁組みが繰り返され、今や本願寺門主は雲上人となり果てた。それを喜ぶ僧侶・門徒の精神には、もはや宗祖親鸞聖人や中興蓮如上人でさえも阿弥陀仏の化身とみなされ、その行実が神話化され歪曲されたのである。
徳川幕府が倒され、近代が訪れても、教如の精神を喪失した東本願寺は新時代に対応して生き残るため、皇室や政界と密接な関係を持ち続けた。戦時体制への協力も、その文脈の中で起こっている。教如精神の喪失と堕落は、昭和天皇の義理の妹を裏方に迎えた時、宗門の僧俗が「これでやっと西本願寺に並んだ」と言って喜んだことが、最もそれを象徴していると思える。
しかしその一方で、東本願寺に地下水のように流れる純粋な信仰を求める教如精神は、まだ枯渇していなかった。清沢満之らによって教学の一新や宗政改革が叫ばれた。「大谷派なる宗教的精神」は清沢によって提唱されたが、これこそ「真宗再興」「歎異精神」「教如精神」とも呼びうる、真宗における至極の精神である。こうした流れは、時には細く、時には激流になって東本願寺を刷新していく。
東本願寺第二十四世闡如に端を発した開申事件は、東本願寺大谷家による宗門私物化を露呈し、それに対して民主的な宗門運営を願う内局側との、いわゆる東本願寺紛争に発展した。20年の激しい闘争を経て、大谷家は門首となり、宗門の象徴に収まった。この紛争において内局や心ある人々を支え続けた精神が、「大谷派なる宗教的精神」であった。

東本願寺は江戸時代を通じて、4度の火災に遭った。別名「火だし本願寺」と揶揄されるほどだった。最後の火災は蛤御門の変(禁門の変)における長州派の放火と言われている。東本願寺が徳川家と深い関わりを持っていた故の放火と考えられる。
一方、西本願寺は1600年代に火災に遭って以来、これまで火災には縁がなかった。そのため本願寺に伝えられた宗宝(親鸞聖人たちが残してくださった宗派の宝)のみならず、豊臣秀吉の聚楽第の遺構とも言われる様々な建築物は、安土桃山時代の至宝として、世界遺産に数えられている。西本願寺は京都で最も世界遺産の多い寺院とも言えるのだ。
そうした西本願寺に対し、東本願寺は世界遺産などは何一つない。しかしこの東本願寺こそが、教如精神によって「親鸞聖人の教え」を唯一の宝として継承してきたことを、今私は信じて疑わぬ。
この度の教如上人四百回忌法要は、私にとって親鸞−蓮如−教如−清沢満之−同朋会運動と流れた真宗至極の精神の潮流の再確認であり、それは今も脈々と私たちの大谷派に流れていることを確信したことであった。

【宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要並びに本堂・書院落慶法要報告特集】

2012/06/12

五月五日、前日までの悪天候が嘘のように晴れ渡り、初夏を思わせる晴天に恵まれました。いよいよ宗祖の御遠忌と落慶法要が始まりました。
ー帰敬式ー
帰敬式は七十七名が受式しました。予想の倍の申し込みに、こちらも慌てました。五日だけではとても執行できないので、事情をお話して、前日の四日の午後に吉倉・逸見地域の方々を、そして五日の午前中に他の地域の方々の帰敬式を執行しました。
儀式は、本堂の唐戸(鎧戸)を閉め、内部を暗くして、大きな和ろうそくを灯し、荘厳な雰囲気の中で静かに行われました。
執行する私も、一人一人の頭に剃刀を当てる時、この人がここに至るまでに歩んで来られた人生の道のりを思うと、涙があふれてなりませんでした。阿弥陀様のお慈悲が、この人々をここに押し出してきたことを強く感じました。
ー御遠忌並びに落慶法要ー
メインの大法要は、本堂内が約170人、境内の特設参詣席の100席が埋まり、総勢で270人が法要を見守りました。
その中で、日頃本山や東京教区他、住職と深く交わっている来賓約70名が、法要に彩りを添えてくださいました。
雅楽に始まった法要は、住職の登高座作法の中で、「私たちがこの世に生を受けたのは、地震や津波・放射能に怯えるためではない。我、今ここにありと言える人生を確立するためだ」との表白文が奏上されました。
法要に引き続き、本山・三浦組・横須賀中央仏教会からの祝辞をいただいた後、本堂・書院の建築に関わった業者の表彰式が行われました。どの業者も誠実に、見事な技術で、美しい本堂・書院を完成させてくれたことに、心から感謝を述べました。
最後に住職より、これまでの経過と、この大事業に多大な協力をして下さった浄榮寺のご門徒に、お礼が述べられました。そして式典終了後に、住職は本堂の浜縁に立ち、境内の特設参詣席にお参りされている人々に、大きな声で「みなさん、ありがとうございました」とお礼を申し上げると、みんな大きな拍手で応えてくれました。
ー慶讃祝賀会ー
式典終了後は、急いで専用バスにて汐入のメルキュールホテル横須賀へ移動しました。過密なスケジュールでしたので、時間が押していて、移動にもっと時間がかかるのではと懸念していたのですが、予定より約十分遅れただけで、祝賀会がスタートできました。
一番最後に、住職が会場に姿を現わすと、直接ホテルで受付した方も加わって、約300名の参加者が暖かく迎えてくれました。盛大なパーティーの幕開けでした。
門徒総代の室田哲男さんから、本日の法要が無事に円成したことが報告され、この事業の、ここに至るまでの経緯が紹介された後、参加のみなさんにお礼が述べられました。
引き続き、大谷派東京教区の重鎮である青田厚由教区会議長に祝辞をいただき、横浜組長の橋本正博氏より、乾杯の発声があって、祝宴が始まりました。美しいパーティーコンパニオン十五名が、料理をエスコートしてくれました。
 一時間が経った頃、住職の友人のバンド、グッディーズが登場し、ベンチャーズ曲や、ダイアナなど懐かしい洋楽を聴かせてくれました。途中で住職が2曲歌ったのはご愛敬でした。
 そして最後の一曲になった時、住職が再びステージに登場し、「東日本大震災以来、私たちの心は硬く閉じてしまいました。そんな私たちの硬直した心を、あの曲が少しだけ、柔らかくしてくれました。その曲をみんなで歌いましょう」と語りかけ、バンドが「見上げてごらん、夜の星を」を演奏し出すと、参加者の心はひとつになりました。みんな一生懸命歌っていました。
 あの地震以来、みんな心が疲れていたんでしょう。でも思いっきり楽しい時間を過ごして、これまでの心の疲れが吹き飛んだようでした。「たいへんだったけど、やって良かった」と確信しました。夢のような時間でした。
 法要に関わってくれたすべての人々に感謝しています。




【参加者の声】
 法要が終わってから、たくさんの方々からお手紙やお電話をいただきました。そのどれもが嬉しいものばかりでした。


・初めてお寺の大法要というものを見ました。華やかで絵巻物を見ているようでした(七十代女性)

・今回ご住職が身にまとっていられた法衣は何というのですか?あまりにすばらしくてビックリしました(六十代女性)→
 七条袈裟と言います。あの七条袈裟は約百年前、当時の素封家が寄付してくださったもので、住職一代に一度しか着ないと言われたものです。何度も修復して、大切に着用しています。浄榮寺の宝です。
*七条袈裟については、多くの方から感想をいただきました。

・真っ暗な中で、厳かに執り行われた帰敬式は感動的で心に染みました。法名をいただくだけと軽い気持ちで臨みましたが、こんなに尊い儀式とは思いませんでした。ありがとうございました(八十代男性)

・別紙に法名の意味が書かれていたので、いただいた法名に、より親しみが湧きました(六十代女性)

・法要が終わって、住職さんが本堂の中の人だけでなく、境内にいた私たちにも欄干越しにお礼を述べてくれたのが嬉しかった(七十代男性)

・祝賀会はすごかったです。あんな豪華なパーティーは初めてでした。(五十代女性)

・最高でした!また五年くらい経ったら、計画してください(四十代男性)→無理です(*_*)

・お料理がとっても美味しかった。ホテルの人もとても親切でした。なんだか気持ちが明るくなって、元気が出てきました(六十代女性)

・住職さんの歌う姿は、絶対に忘れません(七十代女性)→忘れてくださいっ。

人間ーこの愚劣で尊きもの

2012/02/28

パソコンのトラブルで、しばらく更新ができませんでした。まだ完全には回復していませんが、少しづつ戻したいと思います。
先日、イラン人タレントのサヘル・ローズさんの本を読みました。テレビではいつも明るく振る舞っていた彼女は、実は国際紛争の悲劇の中から、本当に奇跡としか言い様のない人々との出遇いによって、命をつなぎ、不思議の縁にもよおされて、日本にやってきました。平和な社会を当たり前としている私たちには、まったく想像できない苦労と悲しみを重ねて、今輝いていることを知って、深い感動を覚えました。
人間とは差別し、殺し合い、他人をあざむく本当に愚かな生き物です。でも時々、本当に尊い存在だと思わずにはいられないことがあります。彼女の本の中には、今の世界で一番美しい人々の姿がありました。尊いことです。ぜひご一読ください。

濁世を生きる

2012/01/28

今年は元旦から、大きな地震に見舞われました。先日には首都圏直下型でM7クラスの大地震が4年以内に起こる確率は70%と発表されました。みなさんはこのことをどのようにお考えでしょうか。
考えてみますと、日本列島は4つのプレートの上に位置しています。つまり日本のどこに居ても、地震から逃れられる場所はありません。いつ爆発するかわからない時限爆弾の上に、この日本という国が置かれているわけです。必要性の有無は別にして、こんな危うい地質の上に、原子力発電所などという人間の制御が及ばないシステムを50以上も作ってしまったことは、今となってみると異常としか言いようがありません。この国をこれ以上破壊しないためにも、この際原発は廃止して、代替エネルギーを導入すべき時だと思います。
東日本大震災以来、私たちはいつ大地震や大津波が来るか、怯える日々を送るようになりました。先日来の地震にも、「とうとう来たか!」と思いながら、無事過ぎ去るとホッと胸をなで下ろし、次の地震に怯える毎日です。不安が頭から消えません。
私自身もそうです。その時のために、いろいろな避難ルートやら備えを考えています。しかしだからと言って、不安が無くなるわけではありません。でも、私の内側から声が聞こえました。「私にすべてを任せなさい」それは私ども生かし、いのちを輝かせる阿弥陀仏からのメッセージでした。任せるというのは「南無」です。しかしその南無は、「五体投地(身体と心を大地に投げ出す)」と同義です。つまり「私のいのちを生かすのも殺すのも、すべて阿弥陀様にお任せします」という「覚悟」の南無です。ちょっと助けてくださいというような意味ではありません。本願他力というのは、弥陀に自分のすべてを委ねる究極の選択と言って良いかもしれません。
すべてを阿弥陀様にお任せしてみると、不安な心は晴れました。守ろう守ろうとするから不安なのです。地震や不条理な出来事に出遭おうとも、すべてをお任せすれば、その不都合は「御仏より賜りたる御用」となります。私たちは如来の御用をいただいて、生きていくのです。

苦悩の大地に立つ!

2011/12/30

激動と苦難の2011年が暮れていきます。国内的には未曾有の大地震・津波の災害から台風被害等、原発事故・円高・日本経済の低迷などが上げられます。世界的にはアラブ中東地域で始まった民主化の動きや、ヨーロッパの金融危機を言わなければなりません。いずれにしましても、決して明るい年ではありませんでした。むしろ、人類の将来の危うさを感じさせるような年だったように思います。
一方で、今年は宗祖親鸞聖人七百五十回の御遠忌法要の年でした。私たちが待ちに待ったその御遠忌法要開幕の一週間前に、あの大震災と原発事故が起こりました。私たちは狼狽し、今後の日本がどうなってしまうのか、途方に暮れました。
親鸞聖人が活動していた時代は、「末法時代」と呼ばれ、「この世の終わり」が案じられた時代です。天災や人災、そして戦争や飢餓が頻発した時代でした。誰もがユートピアへの逃避を考えていたそんな不安な時代に、親鸞様は「我が元仁元年」と述べられました。これは、末法のただ中にある現実から一歩も引くことなく、その時代を我が人生として生きるという親鸞様の宣言でありましょう。
親鸞様のこの言葉を今の私たちに当てはめると、この2011年の不安の大地に立つ!ということでしょう。どこかに理想の国があって、そこへ現実から逃避するのではなく、苦しみ悲しみに満ちたこの現実こそ、私の住みかであることを、親鸞様は何度も述べておられます。それが歎異抄の中の最も有名な言葉として「地獄一定すみかぞかし」、つまり私の住みかは地獄以外にない。それを引き受けていけるのは、頼もしい如来様のご本願があるからだ、とおっしゃるのです。逃げることが全ての苦しみの根源であることを、親鸞様は教えてくださいます。
「我が2011年」こそ、かけがえのない私たちの生きる大地なのです。

750回目の報恩講

2011/11/30

12月28日、本山での親鸞聖人の750回目の報恩講が終わりました。たいへん感銘深い報恩講でした。御影堂での満日中法要だけでなく、本願寺周辺は親鸞フェスタ一色に染まりました。ちょうど紅葉の時期と重なり、人でもものすごく多く、京都は熱気に包まれていました。
東本願寺と烏丸通りを隔てて、総会所というお堂があります。平素はこちらで毎日ご法話を聞くことができます。その広い堂内の一角を「Caféあいあう」という喫茶コーナーにして、参詣者や市民に開放しています。外は肌寒いのですが、堂内は石油ストーブがたかれて、入ってくる人たちを温かく迎えてくれました。そこのコーヒーのおいしいこと!しかも無料!感動ものでした。
そのすぐ裏に、本願寺の別邸・渉成園があります。その書院で、マンガ家・井上雄彦氏作の屏風絵「親鸞聖人二部作」が公開されていました。一つは親鸞様が一人でたたずんでおられる姿で、信心を得て長い闇が明け、目覚めの夜明けを迎えられた穏やかな心情が表現されています。
一方もう一つは、河の流れの中を、民衆とともに力強く歩む親鸞様のお姿です。泥水(迷い・苦しみ)は腰の近くまで達し、それにからめとられて不安な面持ちの民衆の先頭に立って、彼岸の浄土(悟りの世界)へ導く親鸞様のお顔は、本願念仏の教えへの確信に満ちあふれ、それがダイナミックな筆致で描かれています。写実的な躍動感に満ちたすばらしい作品です。
親鸞様の750回目の報恩講は、私にとっての新たな出発点となりました。

報恩講を終えて

2011/11/14

報恩講が終わりました。今年は特に、鈴木君代さんの弾き語りが光りました。彼女の歌はとても繊細で傷つきやすい人間の心を、いつも実感こめて歌いあげます。そして語ります。
でもそれ以上に、彼女が恩師の和田先生を思う気持ちが痛いほどよくわかりました。「もう一度、あなたに遇いたい!」そう願う切実な気持ちは、私も同じです。
2006年の1月1日に和田稠先生は亡くなりました。それ以来、和田先生を慕う人々の魂の漂流が始まりました。どこかに吹き寄せて、落ち着いたかと思えばまた漂流する。あっちへ行きこっちへ行き、どこにも頼るところがない。結局自分の心の中を堂々巡りしているだけだったように思います。そうこうしながら、私たちは先生の言葉に再会するんです。それまで気がつかなかった言葉の意味に触れた時、私たちは先生との再会を果たしていくような気がします。
親鸞聖人に出遇うのも、そういうことなのでしょう。750年前の人に遇うなんて想像もできませんが、親鸞さまの言葉の本当の意味に触れた時、私たちは親鸞さまと出遇うのです。
そしてまた、来年の報恩講に向けた歩みが始まりました。

よきひととの出遇い

2011/10/29

いよいよ、当寺の報恩講をお勤めする月になりました。報恩講は浄土真宗が開かれて以来、真宗門徒の最も大切な行事として、本山・別院・一般寺院そして門徒の家庭に至るまで、ずっと変わらず勤められてきました。そして今年は宗祖・親鸞聖人の七百五十回の御遠忌に当たります。その御正当の報恩講は、この11月21日から28日まで、本山・東本願寺にて厳修されます。
親鸞聖人が、私たちの宗祖となった原点は、「よきひと」との出遇いでした。よきひととは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、念仏するよりほかに、別の子細なきなり」と親鸞聖人が歎異抄の中でおおせられた、法然上人への敬愛をこめた呼び方です。よきひと・法然上人との出遇いが、浄土真宗の宗祖としての親鸞聖人を誕生させたのです。
人生にはいろいろな出遇いがあります。私は出会いとは書かず、必ず出遇いと書きます。会うの字は、誰かにあうつもりで会うことを意味します。しかし遇うの字は、まったく思いもよらず出あってしまったという意味になります。遇は遭遇の遇です。まったく思いもよらず、私どもの人生を大きく変える人、あるいは出来事に遭遇したことを「出遇い」と言います。親鸞さまはそのことを、「あいがたくして、今あうことをえたり。聞きがたくして、すでに聞くことをえたり」と、驚きと喜びをもって語られます。「よきひととの出遇い」とは、そうしたことなのです。

私にとってよきひとは、今は亡き和田稠先生でした。20才の頃、真宗大谷派僧侶になるために、東本願寺での最初の修練(集中研修)に臨んだ折、当時の修練道場の道場長が和田先生でした。当時の私は生意気盛りで、私たちの班の担任を議論で攻撃していたことを記憶しています。その最中に、和田道場長は静かに私たちの部屋に入って来られました。私は、この物静かな老人をなめてかかっていました。
ひとしきり私が話を終えると、道場長が声をかけられました。「あんたはどこから来られたんや?」「神奈川県の横須賀市です」「あんたは先ほどから、自分はあまり寺を継ぎたくないと言っておったが、それならどうしてここにおるんや?」そう問われて、少し焦りましたが「いや、そうは言いましたけど、実家が寺ですから、とりあえず資格だけは取っておこうと思ったので…」そう答えた時でした。物静かな道場長の顔が一変し、極めて厳しい表情でこう言い放ちました。「そんなことは聞いておらん!真剣な気持ちで寺を継ぐ気がない者が、どうしてここにおるんだ!さっさと出ていけ!」
それは私には衝撃的な一言でした。これまでどんな情況でも何とかごまかせる、いやごまかして生きてきました。それがこの人の前では、どんなことをしてもごまかすことのできぬ恐怖を、この時初めて私は知りました。それはいい加減に生きてきた自分の姿を発見したことでもありました。
この生まれて初めての衝撃が、私と先生を晩年まで強く結びつけてくれました。それ以来、壁に突き当たるにつけ、私はこの師の言葉によって目を開かれ続けました。この師が、私にとって生涯の「よきひと」であったことを、今微塵も疑いません。そして和田先生が最後のご法話をなさったのは、2005年11月8日の当山の報恩講でした。
和田先生は、どこまでも親鸞聖人の発想に立ってものを感じることを、丁寧に教えてくださいました。私にとって和田先生は、親鸞聖人の生まれ変わりのように思えました。
今から25年ほど前になりますが、「葬儀を縁として」というリーフレットの制作委員として、私は真宗大谷派東京教務所で作業していました。委員のメンバーの中に、立派な風貌のご住職が一人おられました。彼は大学教授のような雰囲気の人でした。話し方にも教養の深さを感じさせる方でしたが、どこか醒めたところがありました。委員会が終わっても、私たちと一緒にお酒を酌み交わすわけでもなく、いつも一人で帰られるので、最後まであまり親しくなりませんでした。
「葬儀を縁として」のリーフレットが完成し、教務所で委員会の解散式が行われた後、慰労会が開かれました。そこに珍しく彼も参加しました。かなりお酒が入って、座が乱れてきた時、彼が私の隣にお酒を持ってやってきました。そして私に酒をつぎながら、話しかけてきました。「あなたはいつも元気だねえ。ずっと同じ委員会にいて、いつもあなたを見ていたんだけど、いったいどこからそんなパワーが出てくるの?」そう聞かれたので、こちらも正直に話しました。「いや、別にパワーがあるとはまったく思っていませんが、実は私は修練の時に、私の恩師に怒鳴られて、その感覚を確かめようと思って、僧侶として行動し始めたんですよ。最初はまったくいい加減な気持ちしかなかったと思います」
そう私が語り終えた時、彼は頭をうなだれて静かにこう言いました。「私もあなたと同じ経験がある」それを聞いて「えっ、それは和田先生ですか!」「いや違う。蓬茨祖運という先生だ。私もあなたと同じように、修練の時いい加減な態度だったから、蓬茨先生に厳しく叱責された。でも私はそれがくやしくて、あなたのようにまじめに自分の課題としなかった。先生の叱責に背を向けてしまったんだ。それからずっと、私は浄土真宗の教えから目を背け続けた。でも、あなたの姿を見ていて、何か若い時の自分と共通するものを感じたから、今日はあなたにいろいろ聞いてみようと思ったんだ」
そういう彼には、「よきひと」に出遇いながら、それに背を向けて生きてきた自分への後悔が強く感じられました。恐らく誰にも話したことはなかったであろう、彼の深い後悔を、私は自分のことのように聞き入ってしまいました。
ひとしきり話を終えた彼は、何か人が変わったように明るく、そして親しく私に接してきました。
人間とは本当に不思議な生き物です。心の奥の奥に封印した、誰にも語ることのない後悔を、それまでほとんど交流のなかった私に吐きだした途端、本当の彼が姿を現したのです。それは先述した醒めた大学教授のような彼ではなく、悩み、後悔し、躊躇する一人の凡夫の姿でした。
その後、彼とは二度と会うことはありませんでした。その後彼は難病に冒され、10年以上の闘病を経て、5年ほど前往生されました。たった一度の心の交流でしたが、私は彼のことを忘れたことはありません。恐らく彼もそうだったと思います。忘れることのできない出遇いというものが、「よきひと」のおかげで私たちに訪れたことは、仏縁という他はありません。人間とはかくも深く、すばらしいものであることを思わずにはいられません。

私が一番最初に仏教に帰依したきっかけは、お釈迦様の本を読んだことでした。
その釈尊が八十年の生涯の果てに、最後の伝道の旅で、苦しい峠越えを従者アーナンダとともに終えられた時、人生を振り返って語られた言葉が私どもの心を打ちます。
「アーナンダよ。命は美しい。人間とは、かくも尊いものである」
法然さまも親鸞さまも、そして和田先生も、このことを確信してその人生を終えられたことを、不肖の弟子ではありますが、深く信じるものであります。

お骨やお墓へのこだわりと、精神の自由

2011/10/21

主に関東ではお墓を中心に仏事を考えることが多いですが、浄土真宗では、お内仏(仏壇)を中心に仏事を考えます。お墓は人間としての形見(遺骨)を納めた場所であり、お内仏(仏壇)は浄土を表現したものです。私たちの先輩(先祖・亡き人)は如来のお助けによって浄土に生まれ、諸仏として今浄土にいらっしゃることを、お内仏で表現するのです。だからお内仏でのお勤めが、極めて重要になります。ちなみにお内仏とは、ご本尊に重きをおいた、浄土真宗独自の言い方です。
ところが、最近では誰も浄土を信じていないようです。浄土が信じられないから、現実味のあるお墓や埋葬場所にこだわってしまいます。お墓とは人間の形見(遺骨)を置いておく場所で、その場所に永遠に留まるわけではないのです。
むしろ、どれほど立派なお墓であっても、私たちが生涯の果てに狭く暗いカロートの中に永遠に留まると考えると、かえって暗い気持ちにならないでしょうか。
浄土真宗ほどお墓にこだわらない宗派はありません。私たちは阿弥陀様のお助けにあずかって、念仏して浄土に生まれるのです。親鸞聖人は「私が死んだら賀茂川にうち捨てて、魚に与えなさい」とおっしゃいました。肉体にこだわることは何もないということを教えてくださっています。むしろ人間の精神こそ諸仏となって永遠に生きるのです。生きるのは肉体ではなく、私たちの精神です。それは逆に、浄土が実感できなければ、肉体とともに私たちの精神も死んでしまうということを意味します。
私たちの精神を永遠に生かすところ、それが浄土という国であることを、親鸞さまは教えてくださいました。

今年の報恩講(親鸞フェスタ)の予定

2011/10/09

今年の報恩講のスケジュールが決まりました。どなたでも自由に、そして何度もご参加ください。人と人が触れあう喜びを感じていただきたいと存じます。初めて参加の方は、こちらの失礼があってはいけないので、事前にお問い合わせフォームでご連絡ください。

◎11月8日(火)−逮夜(たいや)*イブのような感じで、出遇いを楽しみます。
16:30 勤行
17:00 法話(住職)
18:00 お凌ぎ(夕食)
18:30 コンサートの夕べ(鈴木君代さん)
20:00 交歓のつどい(懇親会)〜21:30散会

◎11月9日(水)−日中 *伝統的な報恩講です。如来さまと親鸞さまの御恩を深く感謝します。
10:00 勤行・御文
10:30 法話(近田昭夫先生)
12:00 お斎(昼食)
13:00 法話(近田昭夫先生)
14:00 休憩
14:15 勤行(満日中)
15:00 住職挨拶・恩徳讃斉唱・散会

*参加費は懇志金で、すべて「こころざし」です。決まりはありません。一度お納めになれば、両日ともに参加できます。金額が気になる方は、お問い合わせフォームでお尋ねください。

お詫び

2011/10/01

皆様からいただいた「お問い合わせフォーム」の内容が、こちらにきちんと送信されていない不備が見つかりました。これまで無回答であったことが、たいへん申し訳なく、心よりお詫び申しあげます。9/29より正常になりましたので、どうぞご利用ください。

11月8.9日 報恩講「親鸞フェスタ」のお知らせ

2011/09/30

11月8日〜9日に報恩講を行います。

報恩講とは浄土真宗でもっとも重要な行事。
宗祖親鸞聖人のお命日(11月28日)を縁として、その前後に門徒・一般寺院・教区別院・本山と、信心を明らかにする仏事が営まれます。
他宗のいわゆる祖忌は、寺院でのみ行われますが、真宗の報恩講は全国のご門徒の自宅でも勤められるのが特徴です。

当山では報恩講を「親鸞フェスタ」と位置付け、勤行・法話・コンサート・懇親会等を行っています。
宗派の別なく、どなたでも参加できますのでお気軽にお越しください。

被災の大地に立つ

2011/09/29

9月16日の23時30分から17日の23時30分まで、丸々24時間を使って、大震災の被災地・宮城県南三陸町の後片付けのボランティア活動をしてきました。夜行バスで約8時間、山の間を走っている時はあまり被害の状況がわかりませんでしたが、山間を抜けて海が見えた途端、すさまじい光景が目の中に飛び込んできました。山肌がまっ茶色になっています。あんな高さにまで津波が来たのです。まるでアルミ缶を潰したような自動車が、何台も空地に吹き溜まっています。町の中では、建物という建物はすべて失われ、コンクリートの太い電柱が根本から引きちぎられていました。どれほどの巨大な波の力が襲ってきたのでしょう。津波の爪痕を見て、身震いがしました。
この南三陸町は、防災職員が最後まで防災無線で避難を呼びかけ、その防災センターそのものが巨大な津波に呑み込まれて多くの人々が亡くなったことで有名になりました。写真の右端に、鉄骨だけになった防災センターの跡が残っていました。何ともやり切れない思いでした。
現地のボランティアセンター職員の指導で、活動開始。私たちは何も技術がないので、ひたすら瓦礫の分別と泥かき、そして一輪車による泥や瓦礫の撤去でした。久しぶりの7時間の肉体労働は、58歳の私には多少シンドいですが、この汗は尊いと感じつつ、黙々とした作業が続きました。泥をかいていると、携帯電話やおもちゃなどが出てきて、つい胸が詰まってしまいました。自然災害の猛威の前に、人間は本当に非力です。どれほど泣こうが祈ろうが、来るものは来る、仏神の冥加でそれを食い止めることなどできるはずはない、そう実感しました。
一方で、一筋の希望も感じられました。同行したボランティアメンバーは20代・30代が大半でした。黙々と誠実に働く彼らを見ていると、今日の若者は決して見捨てたものじゃありません。いやむしろ、彼らのような若者がいる限り、日本はきっとよみがえる、それをひそかに確信した旅でした。

人と生まれて

2011/07/28

私は今年で58才になります。振り返れば、あっという間の58年間でした。今年は半年間に、100才を超えるお年よりの葬儀を4回お勤めしました。こんなことは初めてでした。
だいたいこれまで100才を超える方のお葬儀は、一年に一度あるいは二度くらいです。半年で4人というのは極めて異例です。日本はいよいよ人生100年の時代を迎えたのかと実感しました。
それでもご当人たちの意識はどうでしょうか。長く生きてきたと思われているのか、それとも何だかあっという間に100年過ぎてしまった、と思われているか、どちらでしょうか。
私にはわかりませんが、あっという間の100年だった、という思いなんじゃないかなと思います。あっという間の50年、あっという間の80年、そしてあっという間の100年、それが人生の実感だろうと想像しています。
そして、結局のところ「自分はいったい何をしたんだろうか」と思うのです。
生きる喜びとは何でしょうか。事業に成功して経済的に豊かでも、健康や人に恵まれていなかったら、その喜びは失われます。例え一人ぼっちでも、心豊かに生きている人がいます。つまり、人間の喜びとは「生まれてきて良かった!」と感じることだと思います。人生とは、それを求めて試行錯誤していく旅路だと思うのです。
その旅路に、真宗門徒はお念仏を杖にして歩もうとするのです。皆さんもぜひその尊い杖をついて歩んでいただきたいと思います。

チュッラ・パンタカの悟り

2011/06/20

私たちを苦しめるもの、それは私たち自身の中にある「煩悩」です。親鸞聖人は、その「煩悩」を「無明の闇」と表現されました。
その「闇」には「無知であること」「執着すること」など、いろいろな要素が含まれます。

仏教の教祖・お釈迦さま(仏陀ブッダ)は、苦しみの根源である「煩悩」を乗り超えるために、深く学び、修行することが大切であるとお示しになり、それこそが「悟り」の世界へ至る道であることを教えてくださいました。
しかし、それはたいへん難解で、ほんの一握りの俊英たちだけが到達できる世界でした。

世界の偉大な教祖の中で、80才という高齢でこの世を去ったのは、お釈迦さま(釈尊)だけです。悟りを開かれたのが35才のときですから、その後、45年間という長い日々を伝道に費やされたことになります。

実はこのことが、仏教に他の宗教とはまったく違う寛容性を与えました。45年という歳月が「悟り」の内容をより深く、広いものに熟成させたと言っても過言ではありません。
釈尊が「悟り」を開かれてすぐに伝道した対象者は、自分と同じく宗教的学問的に優れた沙門(出家者)仲間でした。そうでなければ、この難解な悟りの境地を理解できないとお考えになったからです。これを皮切りに、優秀な若者たちを次々と弟子にすることで、原始仏教教団は成立していきました。
しかし、10年20年と経つうちに「女性も出家したい」「出家はできなくても、釈尊の弟子になりたい」など様々な要望が発生してきました。こうした事態が、釈尊の「悟り」の内容に柔軟性を与えていったと考えられます。そんな中、ある出来事が起こりました。
これは実に不思議なお話です。でもその不思議を、私が敢えて想像してみました。わからないことを想像して、2500年前の事実に近づくのは、宗教者として大切なことだと思うからです。

〜チュッラ・パンタカの悟り〜

弟子の中にチュッラ・パンタカという、いわゆる「記憶障害」をもった人物がいました。
その兄はたいへん優秀な弟子の一人で、自分に比べて能力の劣る弟を不憫に思い、何かと面倒をみていました。
しかしいつまでたっても、短い教えの言葉すら憶えられない弟に腹を立て、修行をあきらめて家に帰るように言いました。
弟が涙をためて歩いているのを見て、釈尊が声をかけ「泣くことはない。誰にでも苦手なことはあるのだよ。パンタカは何が得意なのかね」と尋ねられました。
「私は掃除が好きです」という答えに対し、釈尊は「では掃除をしなさい。
その時には『チリをはらい、アカをのぞかん』と何度もくりかえして言うように」と教えました。

それ以来、パンタカは人が変わったように、毎日毎日掃除をするようになりました。
そして「チリをはらい、アカをのぞかん」とくりかえし言ううちに、「チリをはらい」で口ごもると、どこかから「アカをのぞかん」と声がするようになったのです。「アカをのぞかん」というと、「チリをはらい」と聞こえます。きっと釈尊が他の弟子に、「パンタカが言葉を忘れたら、周りの人が思い出させてあげなさい」と声をかけたのでしょう。
それを繰り返すうちに、パンタカの表情は光り輝くようになりました。
他のお弟子たちがその変化に気付き、「彼は悟りを得たのでは」「まさか、あの愚鈍なパンタカが」と、口々に彼のことを噂しました。

そうです。彼は「悟り」を得たのです。こうして、彼は聖者の一人になりました。
しかし彼が得た「悟り」は、他のお弟子が得た「悟り」とは少し違っていたようです。彼の「悟り」は、釈尊の慈悲に対する感謝の気持ちから生まれたものでした。
兄に見捨てられ、絶望の淵に沈んでいたパンタカに、誰よりも深い慈悲の心をよせたのは釈尊です。彼が得意な掃除を修行にし、彼が言葉を忘れた場合を考えて、周りの人々に彼をサポートするよう心遣ったのだと思います。
パンタカには難しい修行や学問よりも、自分をひたすら思ってくれている釈尊の慈悲心がたまらなく嬉しかったのです。
仏の慈悲への感謝の念を「信心」と呼びます。
釈尊の「悟り」は、パンタカを通して「信心」という大変革を遂げていったと思われます。

このことは、自ら精進して「悟り」を得る仏教から、仏の慈悲を感じることで深い「信心」を生み出す新しい仏教への大きな飛翔でした。
この、 ヒマーヤナ(小乗)仏教から、マハーヤナ(大乗)仏教への飛翔は、釈尊80年の生涯の中ですでに行われていたと思われます。

私たちの浄土真宗は、阿弥陀如来の慈悲心から発せられました。
それが2500年前、釈尊の慈悲となって、チュッラ・パンタカを潤したのです。
阿弥陀如来の大慈悲の一滴が、釈尊の慈しみの源流であり、以来その流れは様々な形となって、私たちを潤し続けているのです。

※ヒマーヤナとは、主にスリランカやミャンマーなどの南方に伝わった仏教のこと。
小乗仏教の呼び名は大乗マハーヤナ側から見た蔑称とも言えるので、現在ではヒマーヤナとは言わず、テーラワーダ(長老の教え)仏教と呼んでいる。

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